いけばな嵯峨御流

大覚寺境内を流れる有栖川。悠久の流れ。

大覚寺の境内には、有栖川という川が流れています。江戸時代の資料では、京都には賀茂、紫野、嵯峨の三ヶ所に有栖川が存在し、現存するのは嵯峨の有栖川のみとなっています。

 源流は大覚寺の北、観空寺谷で渓流は大覚寺に突き当り、一つの流は「大沢池」へ、もう一つは境内の華道芸術学院の正面を流れる「通称御殿川」となって流れ、その2つの流れは大沢池畔で合流したあと嵯峨野を南流し梅津を経て「桂川」に注いでいます。

 ところで有栖とは、荒樔(あらす)・荒瀬のことで、禊祓いを行う斎場を意味しているそうです。1)古来から有栖川は、伊勢神宮の斎宮に選ばれた皇女が身を清めた場所である斎宮(斎院)と関連があり、別名「斎川(いつきがわ)」とも呼ばれて、潔斎する場所を野宮といい、天皇が即位するたびに斎王が決められたという事です。

 野宮の場所は毎回異なっていたそうですが、嵯峨天皇の御代には仁子内親王が斎王に選ばれたときから、現在の野々宮神社の鎮座地に野々宮が作られるようになったそうです。

 嵯峨天皇の第10皇女である仁子内親王は、嵯峨天皇の即位された大同4年(809年)8月11日に斎宮に選ばれ、弘仁2年(811年)に伊勢に赴かれ、弘仁14年(823年)の嵯峨天皇の譲位により斎宮の任を解かれた御方です。1200年の昔から、有栖川が注ぐ大沢池の風景が今も昔の姿をとどめて変わらずに存在し続けているということは、どれほどかけがえのないことかと今改めて長い歴史に思いを馳せています。

水の流れは命の原点であり、水の問題は今の環境問題に直結する重要な事です。水が連綿とつながっていることで生まれる風景は、言い換えれば 水の流れが滞ってしまうと風景は壊れ環境破壊が起こったと言うことです。嵯峨天皇が御宸翰般若心経に込められた、命の大切さと平和を願う御心を、花に託して後世に伝えよと仰せられた御心が大覚寺・嵯峨御流の中に連綿と伝えられ今に至ります。

 現在、嵯峨御流では風景を連続した水の流れを主軸として自然と人の関わり合いが生み出すもの、ととらえ、「景色いけ 七景三勝」といういけばなの型を以て、身近な自然環境を守り後世に伝えて行く意義を社会に発信し続け、1200年前の嵯峨天皇の御心を伝え続けようとしています。

参考資料 http://www.kyotofukoh.jp/report393.html

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